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風に吹かれて 探していたこちらでは秋晴れが続いています。_c0185858_14024980.jpg
それが なにかもわからないまま

明日のこともわからない私は
未来を 確信することなどできない
ただ 言えるのは
いま 生きているということ
そして あなたを愛しているということ

青い空は 雲を流し
太陽は 私を見つめる

あなたがいたこの世界を
私も今日 生きている。






 今月の初め、ちょっといいことがありました。
それは25年度の朝の連ドラのモデルにやなせたかしさんが選ばれたというお知らせ。やなせさんは私に想いを言葉にして発することへの興味を持つきっかけを作ってくださった方。
 私の家族は両親、兄妹みな読書家ですが、私は幼いころから文字を読むこと(音読・黙読ともに)が苦手でした。ラストが気になって仕方ないし、超が付くほど飽き性なのも原因かもしれません。そんなある日母が買ってきたのが「詩とメルヘン」という雑誌。もっぱらイラスト(挿絵)ばかり見ていたけれど、いつの間にか詩を読むようになり、短編の小説も読むようになりました。そして何より「書けないなら『書けない』と書けばいい、そうすると『書けない』という詩ができるから」というやなせさんの言葉に押されて文章を書くようになりました。それは中学生の頃でした。そして今に続きます。この便りの最後の「ところであなたは」は「詩とメルヘン」の編集前期の締めくくりに、いつもやなせさんが書いていた言葉。「私はこうだけど、あなたはどうですか?」そう言ってくれるこの言葉が好きで、この便りを始めた当初からずっとお借りしています。「詩とメルヘン」は廃刊になりましたが「詩とファンタジー」とタイトルを変えて今も季刊誌として発刊されています。やなせさんが亡くなられたのが2013年ですから、もう10年も経つのですね。

 皆さんは「セイタカアワダチソウ」ってご存じでしょうか?川の土手や空き地、道路の路側帯や小さな隙間に、にょきっと生えていて日本中の至ることころで見かける、いわゆる「雑草」と言われてしまう植物の事です。すっくとまっすぐに生えて、しかも花が枯れると茎は固くなって、小さいころ乾燥した茎でよく遊びましたが、ケガもしました。ところでそのセイタカアワダチソウの花って、見たことがありますか?
 先日立ち寄ったお店の駐輪場の片隅で咲いていたのですが、じっくり見てみると花、かわいいんです。黄色の小さな花がフワフワと集まって咲いています。外来種で繁殖力が強いですし、さほど華やかではないので、特に好んで育てる人も愛でる人も少ないと思いますが、結構かわいい花を咲かせます。しかし、道路のちょっとした隙間にも育つのを見ると、花言葉が「生命力」「元気」なのもわかる気がしますね。

 今月は私の誕生月です。早いものですね、四十路をすぎてもう数年経ちます。さすがにこの歳になると、つい自分が作り固めてしまった世界に引きこもって身を護ろうとしてしまいます。そのうえ毎年ながら誕生月は良いことと、そうでないことがたくさんやってきて私をとても混乱させます。しかし世界は広くて、幼かった頃と変わらず知らないことはまだまだあります。そう、見方を変えれば世界は変わる。なので、これまで面倒だったり気が進まなかったことにも少しずつでいいからトライしていこうと思う今日この頃です。

        ところで、あなたは…。
           ~ゴン~





あっという間に秋になりましたね。_c0185858_15332751.jpg

ふるさとを
紅く染め抜く 曼殊沙華
君の旅路も 灯したけれ

(故郷を赤く染める彼岸花
あなたの旅路も 灯して欲しい)










 9月のお彼岸の中日の深夜、大好きな大切な祖母が他界しました。
偶然にも祖父の月命日と同じ日で、祖父と同じく臨終は親族に看取られることなく、静かに眠るように亡くなりました。祖父母共に人を喜ばせることが大好きな人たちだったので、私たちが悲しむ顔を見たくなかったのかもしれません。唯一の救いは、本当に安らかで眠っているかのような顔をしていたこと。

 以前、少しお話ししましたが、叔父と同居していた祖母は、叔母(叔父の奥さん)が大病を患ってからたびたびショートステイで介護施設に入っていました。新型コロナが流行する少し前からは完全に入所する形になり、新型コロナが猛威を振るいだした2020年春以降から2023年5月の5類引き下げまでの間、叔父以外の人間が面会をすることもままならない状態でした。けれど、それは祖母に限った話ではありませんから、ある意味、祖母はガラス越しででもまた私たちに会える日を待ってくれていたのでしょう。どんな形であれ、生きている間に祖母の顔を見ることができた私は幸せ者です。

 そう、祖母は他界したのです。きちんとお通夜、お葬式、初七日まですべて行ったのです。
なのに、私はまだその実感がありません。
それは長らく会えない、会話も触れることもできない状態が続いていたからなのか、ただ現実を受け入れられないだけなのかは、わかりません。けれど、心のどこかでいつもの介護施設に行けば「ゴンちゃん、聞いて!おばあちゃんな」と言って笑顔で会える気がするのです。そう私の中では2019年12月に会った祖母のままなのです。

 大切な人を失うことに慣れていない私。それはとても幸せで恵まれていて、ありがたいことだと思っています。けれど自分の年齢を考えると、そう遠くない未来に両親や兄妹、友人たち、大切な人を失う日が必ず来るでしょう。その時、きちんと現実を受け入れ、見送ることができるのか自信はありませんが、そろそろその覚悟と準備をしなくてはならない歳になってきたのかもしれませんね。

          ところで、あなたは…。
             ~ゴン~


あっという間に秋になりましたね。_c0185858_15333214.jpg

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光に嵌る
果てしなく 果てしなく深く秋分の日、風が秋仕様に変わってきましたね。_c0185858_15341928.jpg

はじめ 光の渦だったものは
やがて すがたを変え
泥のように私にまとわりつき
その手を 離そうとしない

出逢えた喜びのままで
生きていけると信じていたのに
私は私を陥れ
あなたをもっとと求めてしまった

この光の沼を抜けるにはもう
それを闇と捉えず その中で生きてゆくか
あなたを忘れるほか ないのだろう。






 昔、そうですね…小学生のころだったでしょうか。国語の授業の時に先生に言われた言葉を、今も憶えています。
「では、物語の登場人物の気持ちを考えましょう。」
それはよくある授業の一環だったと思いますが、今から思えば先生のその「登場人物の気持ちを考える」という言葉は、私にある種の催眠?魔法?をかけたのかもしれません。
 物語に登場するのは絶対的正義の主人公だけではありません。その対となる相手が往々にしています。先生の言葉を受け取った私は主人公でけでなく、その相手の気持ちを考えるようになりました。なぜそんなことをしたのか、なぜそうなってしまったのか。
「理由」と「罪」は別物です。だからどんな理由があっても、他人を物理的・心理的に傷つけていいという理由にはなりません。ただそこへ至った理由は慮ることも大切だと私は思っています。

 先日、ドラマ「ハヤブサ消防団」の最終回を拝見しました。小さな田舎町で起きた放火と殺人、そして新興宗教団体がそこに深くかかわっているというお話。かなりざっくり言うと数々の犯行はその宗教を心酔した信者さんによるものでした。先にお話しした通りいかなる理由があったとしても、他人を物理的・心理的に傷つけてはいけません。それは自分が負った傷と、相手に負わせる傷は別物だから。ではなぜ彼らはいわゆる「暴走」をしてしまったのでしょうね。もちろん多くの信者の上に立ちたいという支配欲や認められたいという承認欲求は確かにあったでしょう。けれど、そこに至るまでの「何か」があったはず。ま、物語にはそこまで描写されていませんが、俳優さんの表情やそれまでのセリフを思い返すと、きっとこの人も深い傷を抱えているのだろうと、思わずにはいられませんでした。

 私は幼いころ奈良県天理市にある病院に通院していたこともあり、天理教の信者さんが法被を着てご奉仕されている姿をよく見ていました。親戚には神社に勤めていた方もいたし、知人友人には天理教の方や、そのほかの宗教を信仰される方がいらっしゃいます。考えてみればごく身近に信仰と関わる環境があったのかもしれません。私は無神論者ではありませんが、特定の宗教を信仰していません。けれど私には特定の宗教を信仰されている方が普通でしたし、尊敬の念も持っています。私、天邪鬼で猜疑心が強いですからね。
 劇中でもありましたが「古いからいいってものでもない」と思いますし、また「新しいから怪しい」とも思いません。すべての宗教や民間信仰は「人々が幸せになるために存在しているのだ」と考えているからです。ただそこに誰かの欲求(支配欲や承認欲求、金銭欲等)が加わり、また他を受け入れない排他的な理想が加速すると、それはもう信仰ではなくなるのでしょうね。

 ドラマの物語的にはパッピーエンドでしたが、犯人だった彼らのことを考えるとモヤモヤが止まらず、どうやら私も小学生時代にかけられた催眠?魔法?が今も解けていないようです。
秋分の日、風が秋仕様に変わってきましたね。_c0185858_15231006.jpg
       ところで、あなたは…。
          ~ゴン~

お囃子が夜風にのって 酷暑に台風、せわしい夏です。_c0185858_17515642.jpg
夏の訪れを 教えてくれた

子どものはしゃぐ声
街のほのかな灯り
花火で華やぐ夜空

タンスの中の浴衣の主は
いまはもう いない

私はひとり 窓の外を見る

あの日も暑い 暑い夜だった
あなたの手のぬくもりと
雑踏をかき分けて進むあなたの背中を
私は今も 覚えてる
あなたは 立ち止まることも
振り向くこともなかった

それでも 
私は確かに 愛されていたと
いまならわかる

だから私は この先も 
生きて行ける。






 忙しさを言い訳にしていたら夏バテからの夏風邪をこじらせて、なかなかアップすることができずにいました。今もまだ鼻の調子が良くないのですが、皆さんはいかがお過ごしでしょうか。

 皆さんは花火、好きですか?私は…苦手です。打ち上げ花火は好きですが、手持ち花火は苦手です。でも、線香花火は好きです。
 幼いころ夏になれば祖父母の家でよく花火をしました。兄や姉は喜んでいたのですが、私は「怖い」と号泣。母や祖母の足にくっついて、ものすごく嫌がったのを憶えています。何が怖かったのかというと、着火した時の音、火の勢い、そして火そのものが怖かったのです。祖父は子供や孫を喜ばすのが大好きだったので、きっとそんな私を見て「なんで泣くんや」と怒っていたのでしょうね。それでも私にとっては、とても懐かしくて優しい気持ちになる思い出です。

 今年、祖母が100歳を迎えました。私には記憶に残る祖父母は、父方の祖父母は私が生まれる前に他界したので、母方の祖父母しかいません。祖母は商家の生まれで、私が言うのもなんですが、お嬢様だったそうです。ですが、戦後、曾祖父の事業が傾き暮らしは一辺。和裁ができた祖母は、外で働く祖父と共に家計を支え育ててくれたと母から何度も聞かされました。時代は高度成長期でしたが、まだまだ和服を着る方が多かった時代です。祖母のお客さんにはクラブのママさんたちもいらっしゃったようで、上物の仕立てなんかもしていたようです。祖母の仕事はすべて手縫いです。何日も何週間もかけて縫い上げていきます。忙しいはずなのに祖母は、母や姉、私や姪っ子たちの浴衣をいつの間にか用意してくれて、それを「ちょっと袖、通してみ?」と何気なく渡してくださるのでした。

 祖母が体調を崩し入院したと聞いたのは、5月の連休で会った翌週でした。母からは「覚悟しなさい」と言われたのですが、幸い容体は安定し先日お見舞いに行ってきました。
 私はこの新型コロナの一件で、ありがたいかな大きな痛手や大きく失ったものはありません。自分も感染しましたが、特に後遺症もなく過ごしています。ただ一つ、祖母との時間を除いては。スマホの中に2019年12月に祖母と母と撮った写真があります。その姿は少なくとも私が鹿児島にいた頃とさほど変わりなく、いつものかわいい笑顔です。けれど、病院で3年ぶりに触れられた祖母の手や肩は小さくなっていて、祖母は眉間にしわを寄せながら眠っていました。そこにはクリっとしたかわいい目も、よくしゃべる口も面影をひそめて、呼ぶ声も届かず小さな寝息を立てて眠っていました。

 病気を恨んではいません。医療機関や介護施設の方々、そして関係者の皆様も命がけで対応してくださったのだから、感謝するばかりです。叔父も私の実家も、祖母を引き取るだけのしっかりした対策ができなかったのですから。それでも時間を経てやってきた新型コロナの刃に成す術もなく、でも現実を受け入れることもできず、ここずっと途方に暮れているばかりです。

         ところで、あなたは…。
            ~ゴン~


ここにきて
あなたを抱きしめる今年の梅雨は長いのかな…?_c0185858_14091444.jpg

何も言わず そっと
そっと包み込む

あなたの思うようにすればいい
ちゃんと 受け止めるから

あなたは 自分は闇だという

けれど 
光と闇は同じモノ
生と死が一つのように

闇が光を生み出すなら
あなたは あなたが思っている以上に
すごい人

その素晴らしさを
あなたも ほかの人も 
まだ 気が付いていないだけ。







 皆さんは「聞いたことはあるけれど実際に見たのは初めて」という体験、どのくらいあるでしょうか。
それがとても希少で貴重なものであればすごい体験なのですが、逆によくあるモノなのにまだ出会っていない、そんなことだとどうでしょうか?

 私が「ユキノシタ」という花を初めて見たのは入江泰吉さんの写真集でした。おそらく…20歳前後だったと思います。実家は田舎で子どもの頃はそこそこ自然の中で育ちましたが、ユキノシタを見たことはありませんでした。しかもユキノシタの存在を知ってから実際に見たのはもっと後、たぶん鹿児島の植物園、いや大阪の植物園かもしれません。入江さんの写真では花がクローズアップされていたので、私の中ではユリと行かないまでもシンビジュームやスミレくらいの大きさがあると思っていました。なので、実際にユキノシタを見た時はあまりの小ささに驚いたのを憶えています。
 先日、あるお宅の生け垣(花壇?)に白い花が揺れているのが見えました。よく見るとユキノシタでした。生け垣にはほかにも大小さまざまな木が植わっていたのですが、その中でユキノシタは風に揺れていたのでした。それはともすれば誰にも気づいてもらえないような状態で、ユキノシタが風に揺れていたから私も気が付いたのでしょう。生け垣自体、駐車場の端っこにぼつんとあるので誰も気を留めない、そんな場所です。私は普段、写真を撮るとき、私有地で育ててらっしゃる植物を写真に収めるのは気が引けるので、なるべく公共の場の物を撮るようにしています。ですが、その時はあまりの可愛さに立ちどまり、思わず写真を撮ってしまいました。

 ある人が言いました。「他人からの賞賛を求めることはよくない。それは他人の価値観であり、他人が望む人生を歩むことになるから。それより嫌われても自分の価値観で、自分の想う人生を生きなさい」と。
 確かに、ごもっともですね。けれど残念ながら私はとても煩悩まみれですので、やはり誰かに認められない、必要とされたい、褒められたい、と思ってしまいます。たとえ「自分がどうしたいかを一番に考えて生きる」と決めていたとしても。ただ、そうですね「目的」ですね。何かをした副産物として認められたり、褒められたり、そして必要とされるのなら、それはそれでいいような気がします。大切なのはやはり私の一番大切な人「じぶん」の想いを、考えを尊重することなのかもしれませんね。たとえそれが誰にも気づかれないようなことだったとしても。
今年の梅雨は長いのかな…?_c0185858_14091870.jpg

          ところで、あなたは…。
             ~ゴン~